8/15/2012

桐島、部活やめるってよ


昼からユナイテッドシネマ豊洲で「桐島、部活やめるってよ」を観る。

「桐島、部活やめるってよ」は観ていて、「ああ、こういう感じあったよなあ」と思わず誤解させる映画だ。それは確かに誤解で、じっさいにはこういう「青春」など誰にもありはしなかった。小説やドラマや映画で繰り返されてきた青春物語を無意識に自分の経験とすり替えてきた勘違いの結果にすぎない。おそらくこの映画は「リアル」だとか「等身大の高校生像」などと言われるだろうが、そう言われること自体がこの映画が現実ではないことの明白な証だ。現実はこれほどドラマチックでも鮮烈でもない。日常は退屈で平凡だ。もちろんそのことはこの映画のおもしろさとは全く関係ないことではあるがこの映画が「リアル」だからいい映画なのではない。

この映画の構成は、同じ出来事をそれぞれの人物に焦点を当てて何度も描くという手法をとっている。同じ出来事が視点を変えることによって全く違った意味を持っていることを露骨に描き出すためにとっている手法だが、それ以上にそれぞれが自分の生を生きているのだということを明白に描き出すことにも成功している。そして、それはまさに桐島の不在においてより際立つ。
よくある学校ヒエラルキーのような物語の場合、負け組の視点あるいは勝ち組の視点というものに偏ってしまうものを別の視点で描写し直すことですべて同じ地平で描き出すことに成功している。映画部の前田や武文にとっては桐島のことなどまったく眼中にない。前田が「桐島」の名前を口にすることは決してない。「上」のグループである梨紗や菊地らが「桐島」のことで大騒ぎしようとそれもやはり結局彼らの中での出来事にすぎずその他の者にとってはなんら気に留めるようなことではない。もしこの映画が「リアル」であるとすればこの描写にあるといってもいい。あるグループ、ある人物にとっての特別は決してみんなにとっての特別ではない。他人にはしょせん些事にすぎない。それはたとえ「桐島」であっても。
いわゆる学校ヒエラルキーものでよくある間違いは、「上」のグループの人間は自分たちが学校の中心だと思っていて、そう振舞うところにある(この映画の中でも菊池のグループでそういった会話がなされる)。しかし、「上」であることは中心であることを意味しない。前田や武文らは体育会系との力関係は意識しているが、彼らを中心と考え自分たちを周縁に位置付けているわけではない。自分たちが中心であることは揺るぎない。だからこそ自分たちの脚本で映画を撮り始める。そういう意味では強豪のバレー部は嫌味な描き方になっていて、弱小の野球部は好ましい描写になっている。勉強もスポーツもそこそこできセックスしている自分たちは前田や吹奏楽部の沢島より「上」だと思っているが、部活で活躍しているわけでもない菊池や梨紗のグループもしょせん中心ではありえない。中心にいるであろう「桐島」は不在なのだ。
そしておそらく、現実ではこうしたドラマは起きない。現実には「桐島、部活やめるってよ」「ふーん。そうなんだ」で終わりだ。確かにバレー部は主力を奪われきついだろうが、残った者でなんとかするしかない。それが現実だ。桐島はふつうに学校にくるし、親友も彼女も特に動揺もしない。それが現実だ。たかが高校生が部活をやめただけで大騒ぎになるのが映画だ。いやもしかするとその程度のことで大騒ぎすることそれ自体が「若さ」や「青春」の描写であるのかもしれない。そしてその大騒ぎもしょせん「上」のグループの内輪のことにすぎない。

この映画では菊池の彼女の沙奈は一貫してクソうざいバカ女として描かれている(沙奈が「上」のグループに属しているのは菊池の彼女で梨沙の友人であるということだけであり、沙奈自身になんらかの内在的な理由があるわけではない。そして本人はそれをうすうす自覚している)が、唯一共感するシーンが大後寿々花演じる沢島に菊池とのキスを見せつけるシーンだ。どっちがより気持ち悪いかといえば沢島みたいな女の方が気持ち悪い。

前田も沢島もちょっとした恋心と決定的な失恋を経験してそれがクライマックスへとつながるわけだが、沢島は気持ち悪い失恋なのであまり気持ちよくはなかった。むしろ何しれっと演奏してんだという感じがした。

魚釣島に上陸した中国人は逮捕されたわけだが、島根県警は李明博は逮捕しないのだろうか? 少なくとも今後日本に入国しようとしたら入国拒否、強制送還くらいはするべきだとおもうが。

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