1/24/2013

平成24年度源泉徴収票


平成24年度源泉徴収票
支払金額 9,950,000
源泉徴収税額 790,300
社会保険料 1,170,635

支給額は去年より8万円増えて税金は5,000円安くなっているが社会保険料が
10万円増えているので結局手取りは減ったことになる。

夢の遊眠社「小指の思い出」の後半で野田秀樹演ずる粕羽聖子が磔になり独白するシーンがある。
妄想の息子たち(八月、六月、正月)がストーブに薪をくべているのだが、その薪が自分の母親を火あぶりにしているとは知らないで彼らは嬉々として薪をくべている。いや本当に知らないのか?実は何もかも知っていて嬉々としてくべているのではないか? まさに子どもの無邪気さで彼らは残酷なことをやっているのではないか? そう独白する。

今回の桜宮高校の在校生や卒業生の「声」を聞いていてこの場面を思い出した。

おそらく彼らは本心から件の顧問教諭の体罰を悪くないと思っている。だからこそ、「体罰も時には必要だ」「体罰によって強くなった」「感謝している」と世間に訴えることで、この教諭に問題はなかったことを認めさせられると思っている。そう、粕羽聖子の息子たちがストーブに薪をくべるように無邪気に。しかしそう言いつのるほど、彼らがいかに体罰を受け入れそれに「依存」しているのかということを知らしめることになる。「先生は悪くない。体罰は必要なんです!」桜宮高校の生徒の一人一人がそう言うことで、教諭の罪が重くなり、学校全体がダメだという評価になっていくことに気づいていない。

もしほんとうに自分たちのこと学校のことだけを考えるならば戦略は真逆であるべきだった。つまり、「体罰はいけない」「あの教諭一人が勝手にやっていたこと」「みんな問題視していたが教諭が暴走した」こう言えば、すべての責任は教諭個人の責任となり、学校や生徒はその罪を免れたかもしれない。しかし、生徒も含めた学校全体で「やはり体罰は必要だ」という態度を貫くのであれば、一個人の問題ではなく「体質」の問題だという結論になってしまう。

これまでも体罰の問題は何度となく起こってきたが、今回これほど大きな話になっているのは橋下市長のスタンドプレーに呼応するように本来被害者側に立つべき生徒や卒業生が体罰擁護にまわってしまったことも一因だろう。

個々の心情はともかく、体罰は学校法で禁じられているのだから建前上は否定するしかない。それを本音で体罰が必要な側面もある、などといったとして公に認められるわけがない。それを声高に主張すればするほど否定のトーンも高くなる。どう考えたところで体罰は暴力の一種であり現代の先進国で教師が生徒に暴力を振るうことを公に認めることはありえないからだ。

子どもたちは自分たちの「ほんとうの思い」を語れば大人たちだって建前ではなく「本音」で認めてもらえる、と思ったのかもしれない。実際、体罰擁護の発言をしている大人だっているからだ。しかし、そうした発言をしている大人がどういう立場かは見極めるべきだった。体罰擁護の発言をしている大人は結局何の権限も責任もないただの個人として発言しているか、戸塚宏のような「あっち側」の人間だ。教育行政や政治に携わっているまともな人間が生徒への暴力容認の発言などできるはずがないし、もしするとすればそれは大きなペナルティをともなうことを覚悟しなければならない。生徒が体罰は必要という「本音」を語れば語るほどそれは矯正されるべき対象として認識される。橋下市長のよりラディカルな対応が必要という考えに正当性を与える結果になっている。

子どもたちが「体罰は必ずしも悪いことではない」と言いつのることで、社会は体罰をなくすにはどうしたらいいかという対策を真剣に議論するのだとすれば、それは、子どもたちの期待を裏切ることで子どもたちの利益になる(実際体罰を無くすことは子どもたちの利益に他ならない)という屈折した結果になるのかもしれない。

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