1/28/2024

「〈悪の凡庸さ〉を問い直す」

17:35鹿児島空港発のANA550便で帰阪。

きょうは特にやることもなかったので田野大輔(編著)「〈悪の凡庸さ〉を問い直す」を読了。

この本はハンナ・アーレントがアドルフ・アイヒマンを評して使用した「悪の凡庸さ」という言葉をめぐる議論だ。

迂闊だったと言うべきか、この本で言及されている「悪の凡庸さ」についての通俗的理解にすっかりはまっていた。

曰く「アイヒマンは反ユダヤ主義者などではなく、ただ卑小な官僚として命令に従っただけだ」「ドイツは戦後ナチの蛮行について真摯に反省し、ナチ排除に腐心している」といった言説がすべてまやかしであるということはまったく知らなかった。

アイヒマンはアルゼンチンで裕福な生活を送り、そもそもナチとして逃亡生活を送ることに怯えてなどはいなかった。なぜならそもそもドイツでは同じ時期にナチの残党が政権中枢で平然と権力を握っていたから。彼らが許されているのなら自分も当然許されてしかるべきだとアイヒマンは考えていて、ドイツへの帰国さえ模索していた。

またアイヒマンはただ唯々諾々と命令に従ったというわけではなく、自主的に様々な施策を行い、実際にユダヤ人がどのように処刑されているかも確認していた。

アイヒマンは通俗的な理解では、ただ官僚組織の歯車として自分の役割を果たしただけでそこには凡庸な役人根性があっただけだったというものだが、近年のホロコースト研究ではこうした見方はほぼ否定されている。アイヒマンは積極的にホロコーストに関与しているし、重要な役割を果たしている。ただの歯車などというものではない。

ではハンナ・アーレントのいう「悪の凡庸さ」という言葉は誤りだったのか。これについては議論の余地がある。そもそもハンナ・アーレントはこうした通俗的な理解として「悪の凡庸さ」という言葉を使用したわけではない。ヤスパースはハンナ・アーレントに対してナチの悪行に対して「悪魔的な偉大さ」を見ないように諫めたという。すなわちナチの悪行をある種の超越的なもの、法を超えたものとして見ることはホロコーストに対して超越的な位置を与えることになる。これはナチが成し遂げたことを法では裁きえないものとして捉えかねない。ヤスパースはこれを危惧しハンナ・アーレントに警告したのだろう。そしてハンナ・アーレントはその意味においてアイヒマンを「悪の凡庸さ」と評したのである。

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